ズバッとズキューン!のQ&A

わかりやすさと、ハートにズキューン!ってくる衝撃の、両取りを試みたQ&Aです。

Q.初めての体験って大事ですか?

A.大事じゃないけど、人生が決まるよ!

新しい事を発見すると感動するよね。これ、脳内にフォルダが出来上がった状態なんだ。
で、その中に一つのメモが入っているの。「○○は△△であった!」みたいな短文でね。
通常は1フォルダに1メモでセット。フォルダもメモも作成後は削除も編集も不可だよ。
間違えていたら、二つ目のメモを新しく作り「△ではなく▽だった」って追記するんだ。
そんな感じで修正すると、フォルダを開く度にズラっと大量のメモを順に読む事になる。
この作業が億劫な人は、結局一番最初のメモだけを読んで、第一印象だけで行動するよ!
そういう人はほっときましょう。キャパシティオーバーした人に振り回される事なかれ。


「自分はバグっているかも」って感じたら、全部ゴミ箱にぶっこむ事をおススメするよ!
特に、他人様から頂いたメモはしっかり燃やすんだよ。やりなおして強制感動するんだ!

Q.僕は何で救われないんですか?

A.自分を自分で救う気がないからだよ!

自分がしてほしい事やされて嬉しい事を、他人にもしてしまうのが生き物のサガなんだ。
自分がそうであるべきと思った事は、相手もそうであるはずと思い込むのも、同じだね。
つまり、「救われたい」って思う人は、人間全員「救われたい」って思うと思っている。
「救われたい」って思う他人が自分に何かを施してきても、相手自身の為だと感じるの。
「行動する事で相手自身は救われた、でも自分が救われたわけじゃない」って事だね。
だからといって自分が他人を救っても「自分はされて嬉しい事をされていない」と思う。
その人が救われる方法は二つ。対等より下な者から奪うか、上の者から恵まれるかだよ!


でも、生き物なら全ての命が対等だと知っているから、結局自力で自分を救うんだよね。
神かロボって思い込めば気分は救われるけど、妄想で救われた先には何があるんだろね?

Q.全てのものは対になりますか?

A.ならないけど、対によって産まれてくるよ!

例えば「私」という人間は、何かと比べる事はできるけど、唯一無二のものなんだよね。
母と父から「私」が産まれる。「私」とその他の人を比べて、「性別」が産まれもする。
全ての実在する存在や、全ての想定できる概念は、足し引きや、比べる事で産まれるの。
そんな、対によって発生した何かは、新しく存在や概念を産まない限り、対ではないよ。


人間は、本当に比べる事が好きだよね。大きい小さい、どっちに傾いても満足しないし。
大きい方が良いって事になっていても、大きすぎるとダメって事になったりもするしね。
大きい小さいの基準が、世界が産まれる前からあって、人や物がそれに合わせちゃうの。
その為、人や物は基準にとって不完全で不安定だって事になっているけど、逆なんだよ!
人や物が先にあって、その後それに合わせて基準ができるの。人も物も完全体なんだよ!

Q.色即是空って何ですか?

A.観が自在なほど悟れし高僧になったらわかる事だよ!

修行した人がやっとわかる事を、修行していない凡人がスンナリわかるわけないのよね。
こういうのは修行する時の参考にするものであり、人生を変えてくれる格言ではないの。


文字数余ったから、昔お話を聞いた事があったから、その時の解説を書き出しておくね。
例えば、色とは名前や肩書きの事。フルネームにあだ名、出席番号やお隣さん、等の事。
空とはそれらを取り除いた自分自身の事。名前や肩書なんてつけられない様な根本の事。
空があればこそ色が産まれ、色があるなら必ずそこに空がある、切っても切れない関係。
キレイだと感じるのも、醜いと感じるのも、それは色があるから起こる事。空には無い。
受想行識も色と同じ。心の波は空という根本の前では無意味な物。空は安全地帯になる。
大事なのは分別を付ける事。苦しむ仕組みがわかれば、苦しみすら愛おしめる。との事!

Q.愛って何ですか?

A.人は、体験していない事は理解できないのだ!

愛は、独自に発明する以外では、親子伝承の継承物だから、わからないのが普通だよ。
文明が始まって以降、夫婦は愛しあっていないし、家族も信頼しあっていないからね。
でも、言葉だけ残っているから、おのおのそれっぽい解釈をしてわかった気でいるんだ。
だから、身の回りの人と誤解がないのなら、どう理解するのも自由って事でいいと思う。
地方だけの方言も、若者だけの流行語も、言語はそうやって変化していくものだからね。


で、昔の人は何を愛と呼び始めたかというと、感動と慶びを伴う正確な認識の事みたい。
文化ごとにちょっと差があるけど、大まかなジャンルはその辺りであっていると思うよ。
感動と喜びには感性と好奇心が、正確さには冒険と探究心が、認識には心の余裕が必要。
現代人には無関係だよね。だから贔屓とか憧れとか嫉妬を愛と呼べばいいんだと思うよ!